THYME運営が、自身の性暴力裁判の二審(相手側が控訴)で読み上げた意見陳述内容です。
特定の罪名にかかる裁判では被害者参加制度を利用することができ、被害者として被告人や裁判に向けて意見を述べることができます。
この意見は私が被害者としての立場で、一個人としての考えや感情をそのまま述べたものです。
そのため、他の方のケースでもこうあるべきだという主張ではありません。
性暴力の刑事裁判や刑事手続きを4年以上かけて行った1個人として、意見を残しておきたく掲載します。
※Aさんとしている部分は、実際には被告人の名前を述べています
※1審についての記事はこちらです
性暴力裁判 控訴審での意見陳述全文
一審では裁判官、裁判員の方に向けて意見を述べましたが、今回は主にAさんに向けて、初めて言葉を紡ぎます。
改めて、私が何に対して理解して向き合ってほしいと思っているかについて。
私は被害によって穢されたとか、私の人間としての価値が損なわれたとは考えていません。私の周囲の人もそう思っていません。性暴力被害者にはそういった社会的なスティグマが向けられますが、私はそれを改めてこの場でも否定したいです。「守られるべき女性を傷つけたこと」が罪なのではなく、一個人の尊厳を踏みにじった罪です。なので、Aさんが謝罪をする対象に私のパートナーが含まれていることに疑問を感じます。私はパートナーの所有物でも家族の所有物でもありません。一審の際の言葉でもパートナーを引き合いに出されたことが私にとっては嫌です。この問題にパートナーは関係ありません。私に起きた問題であり、あなたが向き合う問題です。
私には、今Aさんと争っている、闘っている認識はありません。Aさんには今、さまざまな私の考えや感情が誤って伝わっているかもしれません。だから、そのことについてお話します。
私は一審のとき、あなたの方向を見ていませんでした。以前の意見は裁判官や裁判員、司法、社会に向けたものです。これまでの行動も、常に私が向いているのは加害者一個人ではなく社会です。あのとき、あなたに対しての言葉はほぼありませんでした。
なぜか?あなたの側からの言葉がほぼなかったからです。少なくとも私のもとにまでは知らされていなかったからです。
一審まであなたがなんでこのようなことを起こしてしまったのか、何を考えているのか、一切知りませんでした。一審が終わってからも、ほとんど分かりません。知らないのだから、感情も向けようもないですし、まして私があなたに恨みを抱いているはずも怒りを向けているはずもありません。それくらい、私からはあなたのことが何も分からないのです。
私が示談しない大きな理由となっていることの1つは、事件後から今まであなたの言葉が示されてこなかったことです。逮捕されたときも公判準備中も、加害者側の調書がないことに、私はずっと疑問でした。公判までの間に作られたものを私が見ていないだけであればそちらを見たいと思いますし、何よりあなたが事件についてほとんど自分の言葉で語っていない(それが被害者に示されていない)中で、意味を理解していないお金は受け取ることができません。
Aさんは私たちの調書を、私本人よりも何度も見てきたかもしれませんが、私はあなたの考えも行動も言葉も、何も知らないし届いていなかったのです。それに調書に書いてある私の言葉が、そのまま私の言葉だとも思わないでほしい。「編集された調書」が私のすべてではありません。司法で確かに被疑者は弱い立場です。でも被害者はそもそも蚊帳の外です。今こうして私が意見を言うことができるのも、沢山の被害者が苦しみながら勝ち取った権利です。こういった情報の不均衡があるという前提も共有できればと思います。
私は厳罰を求めているんじゃありません。あなたが変わることを求めています。刑期を長くしたいからでなく、あなたの言葉が分からなかったから、向き合いもないと思ったから、少しでも私が安心できるようにするための方法を提示されてこなかったから、そして現在もその状況は変わっていないから、示談をしていません。
金額だけ提示されても、私には何が起きているのか分かりませんでした。 当初から私は刑自体にこだわりを持っていません。あなたが変わること、自分に向き合うこと、きちんと言葉を紡ぐことにこだわりを持っています。
一生謝るとか、罪を背負っていくとかじゃなく、あなたがケアを受け続けて、一生再犯をしないことが必要です。私に罪悪感を抱き続けるのでなく、あなたがまず人を傷つけることのないように安定して生きて、人を幸せにできるように変わってほしい。それがあって初めて、私に対しても正しく考えられると思います。
「示談は被害者を安心させなければすることができない」と考えてほしいです。被害者に許しを求めるためのものではないです。
そして、「許す」「許さない」という軸も、そもそも私には存在していません。以前述べた「許しなどない」は「許さない」ではなく、「許し」という概念自体がないのだということを言いました。
「許す」「許さない」という単純な軸で考えても、私にとっては何の意味もないと思うからです。「許されることをモチベーションにすることはやめてほしい」と言ったのも、許されるかどうかにこだわったら、一生私が求める向き合いは起こらないからです。
私はお人よしな人間で、もう呆れられるのですが、3年間誰よりも私がAさんの更生を願って、Aさんが変わることを期待してきたのだと思います。周囲から加害者のことをそんな思うなんておかしいって沢山言われましたし、呆れられました。私のこれまでの行動も、今の行動も、厳罰を求めるとか、怒っているとか、苦しめと思っているとか、そんな気持ちでできる行動ではとてもありません。
あなたが逮捕されたとき、名前を聞いて、あなたのご家族のことを思いました。良い名前を付けてもらって、今も自身の家庭がきっとあるだろうと思いました。逮捕される前も、全く分からないあなたが逮捕されることがこわかった。こうした被害者感情があるとは知らないかもしれません。
「許してもらおう」と思うことから一度解放されて、自分のために時間とお金を使ってほしい。答えを、解決策を探そうとしなくていいんです。「分からない」って思いながら、自分で考えることを重ねていくことが答えになると思うんです。
今回、私があなたを「Aさん」と名前で呼んでいるのは、とても悲しい形でしたが、一審後に私の思考の中であなたに人格が伴ったからです。この場でも私は、Aさんを対等な人間として尊重してお話をしています。
Aさんは、あの日支配欲の捌け口として、記号として長時間扱った「モノとしての女」が、こんなにもよく分からない、理解に時間がかかる人間であったと思わなかったでしょう。もしかしたら今も「被害者」として型にはめているかもしれません。複雑なのが人間なんです。よく分からない複雑性を理解しようとすること、それが人を尊重するということです。それを全部無視することが性暴力
です。
ここからは私の勝手な考えなので、違ったら申し訳ないのですが、あなたにもその尊重されなかった経験が、記号として扱われた経験があるのかもしれない。痛みを抱えている過去のあなたがいるのかもしれないと思うのです。そのときのAさんは悪くないし、その痛みがきちんと受け止められるべきだった、今も受け止められるべきだと、私はつよく思っています。
尊重されない経験をした人が、その逃避の結果今度は自分が加害者として同じことをしてしまうなら、こんなに悲しいことないと思います。そこへの心配と悲しみが、この3年間私にあった気持ちだと思います。ケアに繋がってはいけないわけではないのなら、拘置所にいる今も、受刑中もケアに繋がってほしい。そこに時間とお金を使ってほしい。それが私の希望です。多くの人には気がしれないと呆れられますが。
私が以前の意見陳述で伝えたかったのは「更生のために、自分の過去の傷や自分がしたことと向き合ってほしい。治療やケアを受けてほしい。そのように自分の過去と向き合う過程で苦しみも伴うと思う。それがなければ正しい治療やケアになっていない可能性があると思ってほしい」ということです。
主旨は「苦しめ」ではなく、「ケアを受けてください」です。私の伝え方が遠まわしでびっくりされるかもしれませんが、以前の言葉は、同じように傷と向き合って苦しさも伴うPTSDの治療を受けた身から発した、Aさんへの「期待」です。残された期待やAさんの今後への願い、ご家族の方への心配が、被害者の立場からどう表現していいか分からず漏れ出た表現でした。
私がAさんを恨んで「苦しめ」と思っているのだとしたら、Aさんの情報をばらまくことだっていくらでもできたでしょう。
でもそれをしなかったし、むしろ私が一番そこを慎重に守ってきました。
Aさん個人に関する情報を、私は被害者の立場ながら徹底的に守ってきました。ご家族に関わるかもしれないことについては言うまでもありません。この重さが分かるでしょうか。「記事にしたじゃないか」と思われるかもしれませんが、その目的は「Aさん個人を糾弾したいから」でも「Aさんを苦しめたいから」でもなく「性暴力の問題を社会に正しく認知してほしかったから」です。
その考えはこれまでずっと一貫しています。
過程はつらいけれど、何よりケアによって今後が生きやすくなると思います。過去の傷やストレス対処が上手くできずにこのような事件が起きてしまったのならば、適切なケアが必要ですし、それは今後の人生でAさんを救うことに繋がります。
拘置所でカウンセリングは受けられないなどがあるなら、代わりに心理の本を沢山読んでください。お金の問題なのだとしたら、贖罪寄付はもう十分ではないでしょうか。そのお金を、私のためにも、あなたがケアを受けることに使ってください。
証人として出ていた先生でも、ご友人でも、取引ではなく「あなたを受け入れてくれる人」として頼っていいはずだと思います。
フランクルの『夜と霧』という本に「どんな力も、たったひとつ、与えられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない」とありました。
これからもAさん自身のために、Aさんができることがあると思っています。与えられる時間の長さ短さではなく、そこにこだわるのではなく、言葉を、あなた自身がこれからあなたの意思で得ることのできる思考や、学びを拠り所にしてほしい。
それがあなたにとっても、周囲にとっても、私にとってもよい未来に繋がると考えます。押しつけですが、本を読んでほしいです。私が、自覚しておくこととしてあなたの今後を考えた過程です。
3年間で私は勉強せざるを得ませんでした。
今もまだAさんに変わってほしいと信じて、そのために私が勝手にどうしたらいいか考えて、私の理想主義にもほどがあると思います。想像を超えるお人好しでバカな被害者という前提で考えてもらえたら、私の気持ちが伝わるかもしれません。気が知れないと思われるでしょうが、これが今の私なりの被害回復です。
刑については、私がどうこうできる問題では全くないので、司法の判断に従うのみです。これまでもそういう理解で来ました。分かりやすく処罰感情や被害感情を出すことを求められることにも、疲れてきました。
ここまで語った私の気持ちや考えは、処罰感情という言葉や「許す」「許さない」という軸や、示談など、いろんなことにフィットしないのです。その中でいろんな選択をするのも、よくわからないのです。それでも、本当に自分のためになることは何なのか、相手にとっても大切なことは何なのか、いつもそうやって考えてきました。私の意思決定はそこに基づいています。
この場で、私が求めることは言葉にさせていただいたので、少しでも何かできることが為されて、良い方向に進むことを願っています。
以上
2022年11月の刑事裁判にて